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Novel <終章>

 それから、母は変わった。
 父に対する視線が変わり、今までのように『はい。はい。』と、言う事ばかり聞くのでは、なくなってしまったのだ。
『クーデターよ。』
 と、柚菜にコソッと母と漏らしたのだが、野乃村王国を打破する。という意味らしい。
 言ったとおり、引越しした先では、バラの庭を廃止する事を、父に認めさせた。
 そもそも火をだした土地に、再び住むなんて事は出来ない。その上、負債を抱えたままで、新しく家を建てるのは、さすがに出来なかったのだ。
 類焼だけでも出なかったのは幸いで、とりあえずは、賃貸でくらす新しい生活は、白い家とは全く違ったものになったのが、良かったのかもしれない。
 狭いベランダで、プランターに母が栽培したのは、バジルやしその葉。ネギ、キュウリ、プチトマトで、食べられる庭へと変貌をとげた。
 父も、白い家が燃え尽きたせいで、憑き物がおちたように、『こうでなければならない。』というものがなくなったのだった。
 その代わり、抜け殻のようになってしまった父を、母はどうする事もできないのだった。そっと見守り、母は父のもとにいた。
 そして、ある時気付くのである。
 父が母を見る視線に。
 母自身を、まっすぐに見つめ、語りかけている父の姿を。
 母も優しい笑顔で、父を見返し、てきぱきと家事をこなしてゆく。
 安らかな日常が、そこにあった。
 そしてある時、母は柚菜にソッと耳打ちするのである。
「流産した時にね。お母さん、避妊手術も受けてきたのよ。
 子供はゆずだけで、たくさんだわ。」
「えぇー!」
 と、仰天する柚菜に、母がニッコリ笑う。
「彼の子を宿す宿さないは、私が決めることなのよ。」
 言った母の表情。
 そこには、ゆるぎない意志があった。
 深みのある瞳の色は、地に足をつけ、自らの意思で人生を歩む者特有の、色彩をともなっていた。



・・・・そしてある時、公園でのんびりとアイスを食べていた柚菜の耳に、再び幼い子供たちを連れた母親達の会話が、入ってくることがあった。
見ると、以前柚菜をうんざりさせたグループの人達だった。
「うちの旦那、風邪ひいていてさあ。今家で寝ているのよ。自分が熱を出した時は大袈裟でさあ。ウンウンうなってるわ。子供に移すなっていう感じよ。」
「マジでー。風邪はやってるわね、うちの子も、つい2・3日前まで、調子悪かったわ。」
「本当?でさあ、熱出てるときは、ビタミンCだったっけ?・・・医者行って薬もらってんだけど、食欲ないみたいで、レモン水とかでもいいかなあ・・。」
 と、首をかしげて言っているのは、『旦那が早くに帰ってきてうざい。』と言っていた女性だった。
「栄養ドリンクもいいよ。うちは風邪をひいたら栄養ドリンクを飲むの。」
「そうなんだ。帰りに買ってみるわ。・・・家にいたら、子どもが走り回って休養どころじゃないだろうから、結局外に出てきたのよ。ありさ!土を食べない!それは食べ物じゃないでしょ。」
 彼女は、砂場で遊ぶ小さな女の子に向かって怒鳴る。言っている本人も、顔色が悪く、以前の生き生きとした感じが見えない。
「たまっちも、調子悪そうだけれど…大丈夫?」
 一緒にいた女性も、同じように思ったようで、気がかりそうにそう聞いているのが、耳に入ってきた。
「う・・ん。あまり、調子よくないかなあ。でも、旦那ほどじゃないから・・。」
 と、疲れたしぐさで髪をかきあげる。
「たまっちまで倒れると、大変だよ。」
「そうだね。倒れた主婦の面倒を見る人は、誰もいないものね。おまけに子供は親の調子にはおかまいなしだから・・。」
「明日くらい、医者行ってみたら?」
「この調子だったらね。」
 力ない笑顔を子供に向けたまま話す彼女の表情は、しかし安らかである。
(旦那さんのこと、うざいって言ってたのに、ちゃんと、大切にしているじゃない。)
 柚菜は、新しい事実にぶち当たったような衝撃を受けて、その場から動けないでいた。
「うちの旦那も腰が痛いって言ってるよ。一度接骨院言ったらって、何度も言ってるんだけれど、行かないのよ。」
「放っておいたら?そのうち、行くわよ。自分で行かないのは、それほど酷くないっていう証拠だから、あまり気にしないほうがいいわよ。メグは、ただでさえ心配症なんだから。」
 なぜだろう。以前彼女立ちの会話を聞いた時は、夫への呪詛の言葉でしか、聞こえなかったのに、今はそこまで酷く聞こえないのである。
(ひょっとして、話を聞いていた私の精神状態が悪かったから、そんな風に聞こえたのかしら・・。)
「メグもたまっちも、いいじゃない。うちは単身赴任だから、二週間に一度しか、顔を見ないから、調子いいも悪いもわかんないのよ。」
 三人目の母親が、口をとんがらせて言うのに、他の二人は苦笑し、
「風邪も移されないし、腰がいたいだのなんだの愚痴も聞かなくていいじゃない。
 それに、会うときは、新鮮でしょ?」
 と、メグと呼ばれた女性が問いかけると、三人目の女性は、ニッコリ微笑み、
「まあね。」
 と、答えるのである。
 その場から離れて家の帰る途中、柚菜は小躍りしたいくらいに、うれしい気持ちになっていた。
(あの人達は、夫を憎んでいたんじゃなかった・・みんなそうじゃないんだ・・。)
 家路につく人達を、夕方のセールで賑わうスーパーを、晩御飯のおいしそうな匂いが立ち込めるい家々を、柔らかな赤色に染めていた。





・・・そして、また別の日の出来事。
なにげに、道を歩いていた時、柚菜は見知らぬ老夫婦を目にする。
 夫に、少し痴呆が入っているのか、足取りがおぼつかない。そんな彼に、長年連れ添ってきた妻らしき人が、
「ちょっと、お父さん。ズボンがまくれ上がっているでしょ。ちゃんとしとかなきゃだめじゃない。」
 と口にしながら、手はもう夫の方に向かい、さっとズボンの裾をおろすシーンを目にするのである。
 おじいさんは、妻に全信頼をおいているようで、
「あぁー。」
 と、言いながら、されるがままになっている。
 何気ない日常の一シーンの中で、お互いを大切にしあい、時間を共にくらしてきた空気のようなものを、感じさせられたのだった。
(お父さんも、お母さんも、こんな感じの夫婦になるのかなあ・・。)
 なって欲しいと思った。
(結婚もいいかも…でも、大変だからいいわ・・。)
 と、柚菜は、こっそり心の中でつぶやくのだった。
 そんな柚菜を、冬の冷気が吹きすさんでゆく。
「さむーい。」
 と、コートの襟を重ねるのだった。
 今日の晩御飯は何だろう。
(何でもいいや。あったかいものが食べたいわ。)
 家路につく柚菜の足取りは軽い。                    


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