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Novel 第三章

 野乃村家での、新しい生活は、父と母が帰ってきてから、始まったようなものだった。
 父は忙しい仕事に戻ってゆき、母は家事と、庭の手入れに大忙しの日々が続く。
 門田さんは、家政婦として家事全般はやってくれてはいたけれど、引越しの後片付けまでは、しなかったらしい。
 整理して引越ししたとはいえ、膨大な数の日用品や、衣類、家具の整理に、母はパニックを起こし、当然柚菜も駆り出されてしまうのだった。
 そうなってくると、前の奥さんがどこにいる?なんて言ってられない。
「ゆずっ。」
 と、呼びつけられて走り回っているうちに、そんな事などすっかり記憶の隅に追いやられ、考えもしなくなったのだった。
 野乃村家でも母の様子は、幸せそのもので、柚菜から見ても、母は妻としての務めを、頑張ってこなしているようには見えた。
 総じて、野乃村家での生活は、忙しいながらも、楽しい新生活が続く。
 勉強もいつの間にか、隆仁が側についてくれていて、彼とともに勉強をすると、びっくりするくらいはかどった。思いもかけず、柚菜を喜ばせてくれるのだった。
 一緒に生活してから分かった事なのだが、隆仁は、学校で一・二を争う秀才らしいのである。
 将来医者を夢に見ているらしく、国公立大を目指す彼は、すでに学内の成績に重きを置いていないようだった。その勉強量は計り知れないように思うのだった。
 夏の間に、柚菜の中学の転入の手続きも、滞りなくすむ。
 制服も新しい教科書も届いて、新学期に向けて、不安と期待に胸をおどらせていた、ある晩夏の夜の事だった。
 いつもなら、機嫌よく帰ってくる父が、その晩は、もの凄い激怒の表情を浮かべて帰ってきたのである。
 玄関についてチャイムを鳴らす時から、いつもと違っていた。
 母が迎えるまで、カランコロンカランコロンと鳴らし続け、顔を出した母に
「いつまで待たせるんだ。」
 と、罵声を浴びせかけた。
 あまりの剣幕に、びっくりした母が、
「え?そんなに遅かったかしら、いつもと変わらないとおも…。」
 と、言う母に最後まで言わせない。
「遅いから遅いと言ってるんだ。違うか!」
 と、怒鳴り散らして、母の口を封じこめる。
 その時ちょうど脱衣所にある洗面台で手を洗っていた柚菜が、
(何?何があったの?)
 と、びっくりして、ドスドスと廊下を歩く父の姿をこっそり覗いたぐらいだった。
 怒鳴りつけられた母が一番わけが分かっていない顔をしていて、引きつった表情のまま後を追っている。
 キッチンに着き、とりあえずはお茶でも。と、母が出したお湯呑みを払いのけた父は、パサッと、ある書類をテーブルに広げた。
 その書類は、よく見ると戸籍謄本と書いてあり、野乃村彰彦、良子、隆仁、柚菜の名前と、もとの住所やその他もろもろの、家族の情報が記載されていた。
「…何なの?」 
 書類を見せられても、意味が分からない。母が、ボー然となって聞くと、父はこれ以上ないくらいの冷たい目つきで母を見つめ、
「何も思わないか?」
 と、ドスのきいた声色で聞いてくるのだ。
 一緒にキッチンに入ってきていた柚菜も、思わずゾッとさせられるくらいの声色だった。
 ビクッと体を震わせた母は、夫が何を言いたいのか察知しようと、隅から隅まで読むのだが、なぜこんなに怒っているのかが分からない。
 助けを呼ぶ目付きで、柚菜を見つめるが、同じように書類を読んだ柚菜だって、どこがおかしいのか分からない。
「生年月日を見たらいい。」
 父に促された母が、自分の生年月日を見るが、おかしい事は記されていないのだ。
 何と答えたらいいのか、分からなくなってしまった母が、ジッと固まっていると、
「君は今、38歳の筈じゃないのか?」
 と、ささやくようにして言った言葉に、母アッと息をのむ。


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