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Novel <第四章>

 それからしばらくして、柚菜達はさらに、野乃村家から離れられなくなってしまう出来事が起こる。
 それは、母の妊娠だった。これには柚菜も困った。
 身重の母を抱えて、以前の生活に戻るのは、相当な覚悟が必要になってしまったのだ。。
 この時に、違う道を選ぶ選択肢だってあった。けれど、柚菜は流れに身をまかせてしまった。
 母の方は、妊娠を心待ちにしていたので、単純に喜ぶ。
 産婦人科で確定した後、すぐさま母が送ったメールで知った父の喜びようは、はたで見ていてもオーバーなぐらいで、その夜の特別料理とともに、家族総出で祝った時は、何故だかさすがの柚菜も幸せな気分にはなったのだった。
(これでお父さんは、お母さんに言う文句が減ってくれるかな?)
 と、かすかな期待を寄せてしまったほどだった。
 思った通り、御懐妊あそばした母を父は、はれ物にさわるかのように大切に扱った。
 相変わらず王様然とした態度と、自分が家にいる時は、奉仕しろ。と言わんばかりの態度は変わらなかったのだが、母はそれを不満に思うでもなく、主婦としての務めを果たしてゆく。
 何しろ、父なりの最大限の愛情が、さらに高まって母を覆いつくしているのだ。
 やつれてはいても、幸せそうにしている母を見ると、もう柚菜の出る幕はなかった。
 みるみる赤ちゃんグッツが増えてゆく。
 納屋となっていた二階の一室は、赤ちゃん部屋へと変貌をとげた。
 母のお腹も、ほっこり出てきて、女性ホルモンの影響か、やつれた雰囲気は姿を消し、お腹の中で泳いでいるであろう胎児に向かう、父のまなざしは、限りなく優しい。
 外から帰ってきた時に見えた白い家は、内からの幸福で柚菜には、光輝いて見えたのだった。
 しかし、ちょっとしたミスが、すべてを台無しにしてしまう。
 新しい生命が母の体から生まれ出て、その小さな体が産声をあげるさまや、産着を着せられ、眠る安らかな寝顔。
 つぶらな瞳で家族を見あげ、ちいさな手で大人の指をつかみ、みんなを幸福にするはずの未来は突然、まるでシャッターを下ろされたかのように、なくなってしまった。
 後になっても、柚菜はそれを、事故だといいたかった。
 母がまだ妊娠する前に言っていた父の言葉『壁紙が汚れている。拭いたら綺麗になるはずだ』と言う言葉を、なぜその時に限って思い出したのか。
 なぜ母は、ちょっとくらいだったら大丈夫。と思ったのか。
 煮炊きするために、ダイニングの壁紙は汚れやすく、すこし黄ばんでいた壁紙の、低い場所だけを雑巾で拭いているうちは、まだ良かった。
 拭いているうちに、背の届かない所までおよんでいる汚れまでをふき取ろうとして、母はダイニングテーブルの椅子を、台代わりにしてしまったのだ。
 手がすべり、体の体勢がくずれて椅子がぐらつく。
(危ない!)
 思う間もなく、母の足は椅子から離れ、バンと音をたてて、床に叩きつけられてしまった。
(赤ちゃんが!)
 お腹をかばおうにも、床に這いつくばっているこの状態では、すでに遅い。
 運の悪い事に、お腹と強打したために、子宮が痙攣を起こし、信じられないくらいの痛みが腹部全体に広がってゆくのを、母はボー然となすすべもなく、うずくまっているしかなかったのだ。
「うぅーー。」
 と、歯を食いしばり、痛みに耐え、なんとか治まってくれるのを祈るが、痛みはさらに本格的に強くなってくる。
(お願い。赤ちゃん。お腹にとどまっていて…。)
 母は、全身全霊をかけて祈った。
 けれど、一向に痛みが治まらず、そのうち体の奥から生暖かいものが溢れ出してくるのだ。
 足元が濡れてゆくのを感じた時、母は今まで感じたことのないくらいの恐怖が、湧き上がってくる。
 わけもわからず混乱をきたして、母は叫び声を上げていた。
(まだ生まれちゃだめなのにーー。出てきちゃダメーー!)
 もの凄い悲鳴を上げてうずくまっていた母を見つけたのは、学校から帰ってきた柚菜だった。
 混乱している母を見て、柚菜だってはじめは訳がわからなかった。
 しかし、倒れたイス。尋常じゃない顔色で脂汗をかき、足元を真っ赤に染める母の姿を見た時、柚菜はすべてを察した。
 震える手で受話器をあげ、119番を押し、言葉に詰まりながらも名前、住所を話し、切迫流産をおこしかけている旨を説明すると、母は
「この子は、流れないわよ!お腹から出ていかせないんだから!」
 と、もの凄い怒声をあげると、母は白目をむいて倒れてしまうのである。
「お母さん!」
 柚菜は受話器をほおり投げて、母に駆け寄っていった。
 30分後、救急車が到着し、母は速やかに病院に運ばれ、処置をうけたのだが、すべてが後手後手に回ってしまった。
 母や柚菜や、知らせを聞いて駆けつけてきた父が、どんなに願っていても、小さな命は母の体に留まる事ができず、産声すら上げることはなかった。
 柚菜には胎児を見せられることはなかったのだが、赤ちゃんは女の子だったらしい。
 父と母のみが小さな箱に収められてしまった彼女を見た時、母はもとより、父の嘆き悲しむ様は、すざましいものがあった。
 母も、自分の不注意から、新しい命を絶ってしまう事ほど、哀しいものはなかった。と、後になって、柚菜に語るほどだった。
 彼女の死は、後々野乃村家の人達にとって、暗い影を落とす事となる。
 まず、処置室で横になってぐったりとしている母に、父が言った一言。
『お前は子供すら、まともに生めないのか。
 この役立たず。』
 という言葉を、なぜ母にぶつけてしまったのか。
 その時、柚菜は病室に入ろうとして、ドアの所まで来ていた所で、その声を耳にした。
 はじめ、父の言葉だとは、理解出来なかったほどだった。
 横になっていた母だって、理解しきれていないようだった。
 目をまん丸に見開き、呆然となる母と、ドアの所でたたずむ柚菜に気が付いた父は、きまり悪げに視線を落とし、
「ちょっとタバコを吸ってくる。」
 と、一人つぶやくと、サッと部屋を出て行ってしまうのである。
「…・今のなに?」
 柚菜が語りかけるのだが、母の耳には入っていないようだった。みるみる血の気がなくなり、震えだす母の姿を、それこそ柚菜は指をくわえて見ているしかなかった。
「お・・母さん?」
 気遣い、そっとささやく柚菜の目の前で、蒼白な顔色の母の表情が変わってゆく。
 すべての感情が奥に引っ込み、青白い顔は能面のように作りものめいたものになる。
 一瞬、グロテスクな蝋人形のように、不気味な雰囲気を身にまとった母は、ゆっくりと、口だけ笑みを浮かべた表情をつくるのである。
 柚菜は、逃げ出してしまった。



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