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Novel 
 野乃村彰彦は、パパではない。この事は、わかり切っている事実なのに、柚菜の感情は小躍りして、あの男ともっと話したいと思っているのは、どうした訳なのか。
 相反する気持ちを抱え、うずくまっていると、コツコツとヒールの足音が近づいて来る。なんとなく、靴音の主は想像できた。
「…ゆず?」
 やっぱり母だ。おずおずといった感じで、聞こえてくる小さな声は、姿が見えない分、不安に慄いているのが、よくわかった。
 そりゃそうだろう。間違いのない食事会にしたいのに、しょっぱなから娘が挨拶もせずに、席を外したのだから。
(お母さん!まだ早いわ。)
「……急にお腹が痛くなったの。ごめんね。もう大丈夫だから。」
 ジャーと水を流し、柚菜はとっさに、勤めて明るく、自然に嘘をついていた。
 ドアの向こうで、明らかに安堵した母のため息が聞こえ、
「本当にもう。びっくりしたわよ。大丈夫なの?お腹のほうは。」
 と聞いてくる。
「出るもの出ちゃったから、もう大丈夫よ。」
 ドアを開け、柚菜が出てゆくと、気掛かりそうな母の表情にぶち当たる。
 やはり柚菜の母だ。柚菜の話を信じた半面、どこかおかしいと感づいているのだ。
 けれども、整理のつかないこの気持ちを、どう説明したらいいのかわからない。
 パパと感じが似ている。という話は出来ても、だから彼との再婚は、やめた方がいいのとか、賛成だとか…。それ以前の問題だし、トイレのなかで、ゆっくり話している時間さえないだろう。
「お母さんまで席を外したら、あの人たち余計、気になるんじゃない?さあ早くいこう。」
 母の肩をたたき、柚菜は釈然としない表情の母を、急かして言ったのだった。
(どうしよう。また感情が高ぶったら…)
 その時はその時だ。ほとんどやけくそな気持ちで、母と共に野乃村彰彦が座るテーブルに向かっていった。
「彰彦さん。ごめんなさいね。びっくりさせちゃって。ゆず。突然お腹痛くなっちゃったらしいのよ。もう大丈夫みたいだから。ねえ、ゆず。」
「う、うん。」
 と答え、野乃村彰彦の表情をうかがっている柚菜に比べて、母の方が、状況を立て直すのがうまい。さっきの戸惑いはどこへやら。
 極上の笑みを浮かべ、何でもない風に言ってのける母の様子を見て、気掛かりそうにしていた野乃村彰彦は、すっかり安心したようだ。耳元を掻いて
「いやあ。嫌われたのかと思ってねえ。…本当に大丈夫かい?無理しなくていいからね。」
「この子、緊張しているみたいなの。今日はあまり質問攻めにしないで頂戴。」
 娘に構うな。と、明らかなサインを送り、母がホホホと笑うと、野乃村彰彦は、してやられた。とばかりに大げさに仰け反った。
「そうなのかい?先にそれを言って貰ってよかったよ。きょうは柚菜ちゃんに会えて、僕こそテンション高くなっているから。…注意するよ。」
 と、柚菜に笑いかけてくるのだ。
「…そ、そんなんじゃあ・・。」
 消え入りそうな柚菜の声をかき消すかのように母が割って入る。柚菜が戸惑っているぐらいは、母にも伝わっているみたいだ。
「自己紹介はまだ途中だったわね。こちらの男の子を紹介してくださらない?」
 母の一声で、みんなの視線は柚菜から、ひっそりとテーブルに座り、一言も言葉をはっしていない少年へと、移っていったのだった。
「あぁ。そうだった。この子の名前は隆仁。柚菜ちゃんとちょうど同い年だよ。母親を、幼い頃に亡くしているのでね。何かと身についていない事が多いと思うけれど、優しいいい子だから、君たちとも上手くやっていってくれると思うよ。」
 彰彦の紹介に、
「初めまして・・。」
 ニコニコ笑みを浮かべ、面差しのやわらかい少年が、言葉少なげ答えた。ちょっとよわよわしい感じのする子で、不思議と父親に似ていない。
 なんだか印象の薄い子だ。
「こちらこそ、初めまして。」
 返事をした柚菜はそう思い、彼への興味は、すぐに離れていった。
 とにかく、パパを連想させられる彰彦に対する対応を、考えなければならない。
「きゃあ、隆仁くん。
 噂に聞いていたけど、本当にかわいいー。あっ、男の子にこんな事いったら、失礼にあたるわね。」
 妙にはしゃいだ声を出す母を、隆仁は眩しげに見つめ
「いえ、いいっす。」
 と、一言で返している二人を尻目に、柚菜はそっと彰彦をうかがい見た。
 彼は、母と隆仁の様子を気掛かりそうに見ているので、柚菜の視線には気付かない。
 鋭角的な顔の輪郭と、ピンと張った背筋が、仕事をバリバリこなし、成功させているだろう事を伺わせられた。少し白いものが混じっているものの、一分のすきもなく手入れされた髪は、かえって生きてきた重みの様なものがある。 
 かすかに漂ってくる上品な香りは、明らかに体臭ではない。柚菜が日ごろ見慣れている景色と全然違う。
 壮年期特有の男性的な外見と、二人を見つめている柔らかな瞳には、ギャップがありすぎる。柚菜はまたクラクラするものを感じた。
 その時になって、彰彦は何気なしに柚菜に気付き、首をかしげてくるので、あわてて柚菜は視線を外す。





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