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Novel 

 引越しの日程は、柚菜の学校が夏休みにはいるのに合わせて決められた。
 思ったようにリフォームが進まず、悩まされたのだが、何とか引越しギリギリに間に合ってくれたのだった。
 彰彦達は仮住まいのマンションから、柚菜達は元の団地から、必要最低限の物を持って、朝早くから、家に入ってゆく。
 夏の引越しは、朝からきつい日差しがさしこんだ。あっという間に汗だくになり、体力を奪われてフラフラになるのだが、やることはたくさんあった。
 彰彦は業者に場所の指図をし、母はあっちこっちを掃除して回る。
 彼は、母よりも、長年家のことをしてくれていた門田さんの方が、いろいろ頼みやすいらしい。
「門田さん。これはどうしよう?」
 と、母が側にいるのに関わらず、門田さんに聞くのものだから、母の不満をかうのだが、忙しいために、口さえ挟めない。
 彰彦が頼りにするだけに、門田さんは的を得た回答をよこし、柚菜は以前にこの家に来た時に、隆仁がもらした『門田さんはスーパー家政婦』と、言った意味がよくわかるのだった。
 家の中は恐ろしいスピードで片付いてゆく。
母や柚菜がオロオロしているうちに、あらかた済んで、気が付くと、門田さんを含めて遅めの昼食の、引越し蕎麦をすすっていた。
「良子さん。あとの片付けは、新婚旅行から帰ってからだね。」
 彰彦が問いかけた通り、母と彰彦は、明日からほぼ一週間をかけて、新婚旅行に出かけるのである。
(いよいよなんだあ。)
「そうね。楽しみだわ。アメリカ西海岸だって、行った事ないもの。」
 明日からの旅行を思い描き、うっとりと視線をあらぬ方へさまよわせる母を見ながら、柚菜だって自分が行くみたいに胸が躍ったのだった。
「お帰りになるまでは、私が家の事をする。というのでようございますか?」
 一番遅く箸を取り、一番早く食べ終わった門田さんがこれからの予定を確認すると、彰彦は急にかしこまった顔付きになって、一礼した。
「えぇ。門田さんには、今まで大変お世話になりました。門田さんのおかげで、人間らしい生活ができたと思っています。こうやってまた、妻を迎えることが出来る日が来るなんて、思ってもみませんでした。
 あともう少しになってしまいましたが、僕達が帰るまで、隆仁と柚菜ちゃんを、よろしくお願いします。」
 彰彦が言うと、つられて母もおじぎする。門田さんも一礼した。
「かしこまりました。」
(なんだか、慇懃無礼って感じだわ。)
 柚菜が心の中でつぶやくほど、今日一日の門田さんの態度は、家政婦の域をでない。
 そういった点でも、スーパー家政婦だなあと、思うのだった。
 とにかく、彰彦と、母にはもう一つ大事な用件が待っている。
 婚姻届の提出だ。
「さあ、早めに行ってこようか。」
 彰彦の声かけに、母がハッとなってうなずき、
「すぐに出かける準備をするわ。」
 と、答えると、あわてて立ち上がって二階に上がっていった。
 あっという間に、軽く服を着替えた母と彰彦が、出かけようとしたその時、ポアポアポアと、間の抜けた電子音が鳴り響く。
「良子さん。ちょっと待って。」
 彰彦が、ポケットから携帯を取り出し、
「もしもし?」
 と、話し出した。
(呼び出し音、あんな音だったんだ…。)
 彰彦に意外なセンスに、柚菜は少し吹き出してしまう。
「え?どうしても相手方が、難色を示しているのか?何回話を詰めたんだ。」
 電話の相手は、仕事の件らしい。話し振りからどうもトラブルを起こしているようだ。
「うん。うん。分かった。ちょっと待ってくれ。」
 いったん携帯から耳を離し、母に向かって“ごめん”としぐさで表した。そして、小声で、
「仕事でトラブッてるらしいんだ。悪いけど、届けを出しておいてくれないか?」
 と、言うのである。
 母も深刻な表情で、コクンと頷き、
「分かったわ。私の方は心配しないで。」
 と、小さな声でささやくと、彰彦は目で返事をし、
「今どこにいる。山口様宅か?うん。そこだとすぐに行ける距離だ。ちょっと待っていてくれ。」
 言い捨てて、彰彦は電話を切り、
「すまない、良子さん。夕飯までには戻れると思うんだよ。またひと段落したら携帯に電話するよ。」
 と、母にすまなそうに言いおくと、彰彦はアッという間に外に出て、車を走らせて行くのだった。
 残された母は、気遣わしげな表情で彰彦を見送っていたが、彼が行ってしまうと、よしっと、気合を入れた。
「じゃあ私も行ってくるわ。確か駅の側に役所があったわよね。」
 と、隆仁に聞くと、
「場所わかりますか?」
 と、隆仁が問いかけてくる。母は半笑いの顔付きで、
「よく分からないかも?」
 と、答えるのだった。
「じゃあ、僕もついてゆきますよ。」
「そうしてくれると嬉しいわ。」
 と、答える母のこういった所は、要領がいい。母は隆仁と連れだって、陽気に出かけてゆく。
 彼らがいなくなると、残った門田さんはすでに、お皿の洗い物を済ませていて、
「お嬢様。お夕飯は、鳥でようございますか?」
 と聞いてくるのである。
(私にそんな事聞かれても…。)
 と、思いながら、柚菜は自分がお嬢様とよばれた事に、ひどい違和感と、戸惑いと、こそばゆさが入り混じった妙な感覚に陥るのを感じるのだった。
「何でもいいですよ。」
 愛想笑いを浮かべて、柚菜が答えると、門田さんは一礼して
「かしこましました。ただいまから、花壇のお手入れに行って参ります。」
 と言うと、彼女サッと、すばやく部屋を出てゆくのだった。
 すべての人が、出払ってしまうと、柚菜は思わず安堵のため息をついてしまう。
 それから、なにげに部屋を見回していると、あれだけバタバタしていたのが夢のようだ。
 一瞬、シンと静まりかえった静寂にぞっとして寒気が走り、柚菜は自分の肩を抱く。



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