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Novel 

 その日から、母と柚菜の本当の意味での、受難の日々が始まった。
 もともと、門田さんが家中ピカピカにして、整理整頓されていた所に、父は長年くらしていたのだ。
 後に入ってきた母と柚菜は、父の潔癖ともいえる整理整頓好きに、舌を巻かされたのだった。
 父はあの後、例の方法で、家中が片付いているのは、衛生面でも有意義な事で、散らかっているのは言語道断であると、母に認めさせた。
 おかげで、母は家中を掃除し、考えられる限り、整理整頓に努めなければならなかった。
 そして、父が母に認めさせた事柄は、食事の内容は言うに及ばなかった。トイレを流した後の便座は上げたままにする。等、事は微細な点にわたっていたのだが、不思議な事に、母がどんなに合わせても、努力しても父の満足が得られない。
 父は、まるで自分の思い通りになっていない所をチェックするために家に帰って来るのかと思うぐらい、母には厳しく接した。その時はいつも
『君のために言っているんだよ。』
 と言う言葉が付くのだった。
 母に苦言を呈し、時にはきつい調子で離婚を切り出し、母を追い詰めたかと思うと、一変して優しい笑顔で接する。
 後になってから、当時の事を思い返してみると、そういったことを繰り返す方法は、母の心の中にある自立した考えや、母らしい柔らかな気持ちを少しずつ削っていくのには有意義な方法ではなかっただろうかと、思ったりするのであるくらいだった。
 父が望む妻としてのあり方を、例えて鋳型とすると、そこに母を押し込め鋳型からはみ出す母の情念、習慣等を捨てるように要求する事は、相手に愛情がない場合には無効な方法だろうが、父には独占欲ともいえるほどに強い愛情があった。
 この愛情が曲者で、情をからめながら、まるで蜘蛛の糸にからまった獲物を、少しずつ吟味するかのように母を大切に扱い、圧倒的な力関係で、追い詰めてゆく。
 いつの間にか、母は自分で考えるすべを失い、
『こうすれば彰彦さんに怒られる。』
『ここを整理しないとチェックされる。』
『以前、彰彦さんがこうしなさいって言っていたわ。』
 など、何かするごとに、父の影におびえる台詞を、口にするようになったのだった。
 その影響は、柚菜の生活に直接響いてゆく。
 掃除をどれだけしても評価されないために、母は柚菜に手が足りないと思われる所を手伝わせた。
 ただでさえ手間のかかるバラの庭を抱えていた。
 切羽詰まった瞳でさまざまな事を命令されて、家の隅々までを掃除する生活を、送っていると、新学期が始まった新しい学校に、なじむ所ではない。
 学校から帰ってきたあとは、家の用事に翻弄され、ヘトヘトに疲れきった体を横たえて朝を迎える。起きても、どうも疲れが取れないような気分のままで用意をすませ、学校に向かい、授業を受けて、また恐ろしいくらいに居心地の悪い家に戻ってゆく。
 そんな生活を半年くらい続けているうちに、柚菜は同級生達の事を、同じ世界の子達と思えなくなっている自分に気が付き、愕然とするのである。ある時などは、
「ゆずって、なんだか大人びているわ。」
 なんて言われて、思わず
「大人びてるんじゃないわ。所帯疲れしているのよ。」
 と、言い返したくらいだった。
 あの子の言った事が気に入らないだの、好きな子ができたのだの、些細な学園生活での悩みは、同じ学生としての立場にいても、柚菜には全く縁のない出来事で、唯一救われたのが、友達に恵まれた事だろうか。
 柚菜のとって学校とは、家に帰るまでの避難場所と化し、ある時などは下校途中で呼び止められて、同じクラスの男子に告白されても、なにも感じる事なく断ることがあった。
 そんな余裕のない自分に、我ながら柚菜は虚しいものを感じるのだった。


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